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私がヴィーガンになった理由

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肉って旨いか???

私がヴィーガンになった理由を書き記します。

例えば、一時間労働分の金銭価値を持つ牛肉を手に入れたとして。その一時間の労働が果たしてその動物の一生に足り得る価値を持つのか。その動物が食われるために生まされ生かされ殺された不自由と理不尽と暴力が報われるだけの価値があったのか。一時間働いて得た金銭価値は、その動物の一生分の生命価値と同等かそれ以上の価値があるのか。その味を楽しむために働いた1時間分の価値が果たして本当にあるのか。そういったことを連想し思案すると、肉食はとても暴力的で野蛮で思いやりに欠ける行為のように思えてくる。この飽食の時代にわざわざ動物を殺してまで食べる理由はあるのか?人類はすでに飢餓を克服した。人類はすでに必要量のカロリーを生産できるまでの技術基盤がある。未開人が足りない栄養のためにジャングルから猿を狩って食べることはあっても、現代人が動物を檻に閉じ込め殺すのはどうなのか。
    ———[ 食べる悦びは、動物の一生を苦しめただけの価値があるのか? ]より

昨日の晩御飯は何を食べたか?

先日、飲み会があった。で、なんで牛肉・豚肉・鶏肉・卵・牛乳を食べないの?と聞かれた。リアルで自分の本心を言うとカドが立つと思われるので、どのように言おうか唸っていたら忖度された。

ポテトチップス理論

肉をまだ食べていた2008年頃、肉の味をよくよく味わって食べながら、こんなことを考え疑問に思っていた。

「これって旨いのか?この旨さは肉そのものの味なのか?タレがうまいのではないか?タレの味で肉の味をごまかしているのではないか?ポテトチップスだって、様々な味があるが、元々はジャガイモだ。ジャガイモにいろいろな味付けをして売っている。ポテチのうまさはジャガイモに起因するのか?いや、ジャガイモについているタレに起因する部分が大きい。コンソメも黒胡椒も、確かにポテチの風味とよくマッチしておいしいが、それってポテチじゃなくてもよくねーか?ただ単にタレの味を楽しむために、シンプルな味のジャガイモにタレを付けてるだけじゃ無いのか?ハッピーターンも粉の味だし。インスタント焼きそばもタレの味だ。素材の味を誤魔化すためにタレを付けて、素材の味がうまいと錯覚して無いか?確かに和音のように素材と調理が組み合わさり美味しく料理されることもあるかもしれないが、それはそれだ。果たして目の前の肉が、そして口の中の肉が本当に美味しいのかと聞かれたら、たぶんこれはタレが旨いので有って肉は美味くないと答える」

上記のような思案を辿りながら、そんなことに気づいて、これを自分の中でポテトチップス理論と名付けた。ポテトチップス理論により再び肉を食べると、肉の味を噛み締めながら食べると、肉がゴムのように感じた。不味かった。おいしくはなかった。

ひふみ神示

2010年頃から牛肉と豚肉は食べなくなった。この頃は熱心にひふみ神示を読み込んでいた。ひふみ神示には「四つ足を食ってはならん」と書かれていたので食べないようにした。求めて読書して得た知識を実行しなかったら意味がないのは経験からやや学んでいた。すでにポテトチップス理論で牛肉と豚肉への執着がなくなっていたので、食べなくすることに未練はなかった。

牛肉と豚肉を食べなくても特段変わりなく数ヶ月過ごせたので、これに気を良くして、牛肉と豚肉食べないことに加えて、鶏肉と魚も食べない、当時の心境からしたら挑戦をした3ヶ月間は、逆に残虐なゲームを好むようになった。どうやら食べることで残虐性を満たしていたようだと気づいた。なので、牛肉と豚肉を食べない生活は続けながらも、栄養とタンパク質の面から鶏肉と魚は食べる方向で生活を続けた。

食事のときに思う

2010年頃から、食事のときはTVを消してその食材がどの様な経路をたどってこの食卓にまで来たのかを想像する様になった。例えば『米』を食べるときは下記の様な連想を続けていた。

食卓→台所→スーパー(店員→店長→オーナー)→運送会社(運転手)→(物流倉庫)→農協、工場→運送会社→農家の家→田んぼ→田中さん→去年の天候、降水量、生産地。

一口ひとくち噛むごとに上記のことを連想し想像し感じていたこの訓練が記事最下部の心境変化に大きく影響することとになる

鶏肉とヨーグルト

2015年は鶏肉の影響で便の粘性が強くなった(失礼)。便が便器から流れないこともあった(失礼)。流れない便を掃除するのは、とても惨めな気分になった。これを解決するために、この頃は毎日ヨーグルトを食べることが欠かせない日々だった。

おな禁

2016年は性欲を拗らせ、おな禁に徹した年だった。数ヶ月のおな禁を何度か繰り返した。オナ猿とジヒドロテストステロンの抜けた人間の区別がつくようになった。

YouTuber

2017年前半。牛肉と豚肉を食べない生活をして早7年が経った。この7年で肉食をしたのは親戚の付き合いで1回と友人の宅に泊まった日の1回の計2回だった。

牛肉と豚肉を食べない生活をしながらも、いつかは鶏肉も辞めたいと思っていた。しかし、「もし子どもができたら、その子もヴィーガン食をさせるのか。肉食をしなければ、子の成長に悪影響があるんじゃないか」このような疑念から、完全な菜食主義に至れなかった。そんなある日、YouTube である女性の動画を見た。ヴィーガン食で元気に育っている3歳の女の子の日々の食事を撮影した動画だ。これをきっかけにヴィーガンで生きても大丈夫そうだと見切りがついた。鶏肉も辞めた。

どうせだからと魚も辞めた。2017年になる頃には市販のサバの味噌は食べると嗚咽がして箸が付けられなくなっていた。魚もおいしいとは感じなくなっていた。

あと、貝と牛乳と卵も食べるのを辞めた

2017年中頃、ヴィーガン食の人間と肉食の人間の区別が大体つく様になった(ヴィーガンを名乗っていても視聴に違和感を感じる人間は大抵乳製品を食べている)。私は私の人としての魅力をより高めたく思っている。YouTube に動画を投稿しているヴィーガンの魅力に私も近づきたく思う。

肉食生産の現状

そして同時期。畜産業の現状をYouTube の動画で見ることとなる。どのようにして鶏肉が生産されているのか、卵から生まれたオスの雛のその後、豚肉や牛肉の工場内での生産過程。これらの悲惨な現状が全てとは言わないまでも、その一部であることには変わりない。

そうして、2017年6月頃から本格的にヴィーガン食に移行した。

肉食の苦痛

それまでは食べることが苦痛だった。なぜ人間は動物を殺して食べてもいいのか。人間は他の動物よりも頭が賢くて手先が器用で持久力があり文字が書け言葉を喋れる。他の動物よりも力があるから、弱肉強食だから他の動物を殺してもいいのか。果たして本当にこれらが肉食を正当化する理由になるのか。それが不思議で理不尽に感じていた。生きるために他の動物を殺すことに社会の理不尽な暴力を感じていた。

ペットに服を着せ家族のように接する人たちがいる。なぜ犬・猫は自分の家族の様に接して、なぜ同じ4足動物の牛・豚も家族の様に接さないのか。なぜ人に食われるために、家畜は生まされ殺されなければならないのか。人間に食べられるためだけに、企業が利益のために、そして食料の安定供給のために、生まされ育てられ殺される動物たち。鶏の繁殖でも、利益にならないオスの雛は生きたままミキサーに投入されミンチにされる。なぜ殺処分されなければならないのか。あまりにも理不尽な暴力だ。牛や豚の屠殺場ではどうせ死ぬし、費用がかかり利益が減るからと、麻酔もなし生きたまま殺される。こりゃ学校のいじめや政治の腐敗もあるわと思う。

人間は家畜を家畜に産ませ育てて屠殺する

人間は家畜を殺すことを宗教や弱肉強食理論を拠り所とし、なんとも思っていない。人間は自らが食し食べる快楽を愉しむ為に、牛・豚・鳥を産ませ、育て、殺す。
農林水産省の公式サイトによると、令和2年2月1日現在の畜産のために生かされている動物たちは、乳用牛は135万2,000頭、肉用牛は255万5,000頭だ。また、帝国書院のWEBサイトによると、2017年の牛の飼養頭数は世界で約14億頭だそうだ。そう、牛だけで。豚は約10億頭。日本の人口を約2億人としたら、案外少ない数字だろうか?あなたはどう思いますか。
しかし、もしも、もしもだが、もしもなんだけどね、、、
人間は動物たちを食べるために産ませ殺すけど、人間もまた宇宙人に食べられる為に作られたとしたら、、、? しかも、宇宙人が食べるのは人間の肉じゃなくて、悲しみや苦しみや怒りや恐怖などのネガティブな感情だとしたら。人間を創造できるだけの知能がある宇宙人が上質な恐怖を喰べるために、地球で人間を畜産してるとしたら。人間は動物を自分のために喰うのだから、人間は喰べられていても宇宙人に文句を言う資格があるのだろうか?

食べる悦びは、動物の一生を苦しめただけの価値があるのか?

なぜ生きるのか、生きる理由、生きる意味。存在理由。存在意義。 2008年から2016年はそのような疑問を探求していた。自分の内面を見つめ続ける日々を過ごしてきた。この様な経緯から、当然、自分の一時間労働あたりの価値とお金の関係にも想いを巡らせてきた。例えば下記の様なことだ。

思い出せるだろうか。肉を食べたときの美味しさの感動をいつまで覚えていただろうか。その悦びがどれだけ持続しただろうか。持って数十秒だと思う。そのたった数十秒しか持続しない悦びを得るために、動物は生まされ殺される。果たして人が食べるときに感じる悦びは、動物が殺されるためだけに数年生きるに値する以上の価値があるのだろうか。人は食べるときにTVを見ていて、その口に運ばれている食材に意識を向けることはない。もしその口に運ばれた食材が豚肉ならば、全くの無自覚のまま、その豚は産まされ生かされ屠られたことも認識されない。その命の重みは無自覚に消費される。人類はどれほど残酷なことをしているのか。知らず知らずのうちに罪を犯している。無自覚に。無知ゆえに。

これでは戦争も終わらないと思う。戦争の火種を仕掛けるのが巨大コングロマリットや軍事産業であっても、そりゃ肉食をしている人類意識にとっては戦争も肉食もその行為の大小に関わらずその本質は同じだから戦争はなくならない。他の生命を理不尽に支配する行為に変わりない

例えば、一時間労働分の金銭価値を持つ牛肉を手に入れたとして。その一時間の労働が果たしてその動物の一生に足り得る価値を持つのか。その動物が食われるために生まされ生かされ殺された不自由と理不尽と暴力が報われるだけの価値があったのか。一時間働いて得た金銭価値は、その動物の一生分の生命価値と同等かそれ以上の価値があるのか。その味を楽しむために働いた1時間分の価値が果たして本当にあるのか。そういったことを連想し思案すると、肉食はとても暴力的で野蛮で思いやりに欠ける行為のように思えてくる。この飽食の時代にわざわざ動物を殺してまで食べる理由はあるのか?人類はすでに飢餓を克服した。人類はすでに必要量のカロリーを生産できるまでの技術基盤がある。未開人が足りない栄養のためにジャングルから猿を狩って食べることはあっても、現代人が動物を檻に閉じ込め殺すのはどうなのか。

私がヴィーガンになった理由

食事で心が満たされるようになった。これが一番大きい。食事のときと夜眠るときこんな風に考える。「殺してない。生きるために他の動物を殺してない。ああ今日は直接的に動物を殺さなかった」私はその思いに心が満たされ、幸せを感じている。

最後に

一時間働いて得た金銭価値は、その動物の一生分の生命価値と同等かそれ以上の価値があるのか

もちろん、菜食は個人の自由ですし、肉食も個人の自由です。わたしは菜食を人に押し付けません。聞かれても本当に聞かれるまでは、質問にも答えません。私はあなたの自由意志を尊重します。

ありがとうございました。

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